金沢八景の道(横浜金澤散策コース)

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金沢八景

元禄の頃、徳川光圀に招かれ、水戸祇園寺の開山となった明の僧心越禅師が、能見堂からの眺めに故郷杭州西湖を思いながら詠んだ漢詩により有名になりました。また、安藤(歌川)広重によって描かれた「武州金沢八景」八連作がより金沢八景を世に広め、八景の名称も定着しました。

琵琶島神社
北条政子が、瀬戸神社に三島明神を勧請した源頼朝にならい近江国の竹生島明神を勧請したと伝えられています。御祭神はイチキシマヒメノミコトで水の女神です。
この弁財天は立ったままの姿で”立身弁財天”と呼ばれています。また、島の形から”琵琶島弁財天”、船着場があったらしく”船寄弁財天”とも呼ばれていました。毎年5月15日には、瀬戸神社から琵琶島に弁財天が御渡りになる神事があります。
ここから見る秋の夜の月は、広重の「瀬戸の秋月」を思わせます。
金龍禅院
昇天山。臨済宗建長寺派。本尊は聖観世音菩薩。江戸時代の終わり頃には、瀬戸の内海が埋め立てられたこともあって、能見堂よりこの寺の東南にある岩山の山頂が金沢八景を一望できる所として有名になりました。”九覧亭”と名付けられ、昭和初期まで観光客が多く訪れました。地震で現在地へ落ちてしまった”飛石”は金沢四石の一つで、オオヤマツミの神が伊豆三島より飛来し、それを瀬戸神社に祀ったとも伝えられています。山頂にあった頃は海を行き来する人たちの目印にもなっていたのかもしれません。
平潟プロムナード
15世紀頃には、六浦の湊は三艘から瀬ケ崎に移っていました。また、野島に大きな船を着けて琵琶島や六浦の渡し場に小船で人や荷物を運んでいたようです。
昭和初期から徐々に埋め立てられ、追浜に海軍の飛行場ができると瀬ケ崎や室の木の山は切り崩されて平潟湾が埋め立てられました。
わずかに残る平潟湾を囲むように遊歩道が造られています。シーサイドラインが湾曲している付近から広重の「洲崎の晴嵐」・「野島の夕照」・「平潟の落雁」を偲ぶことができます。
侍従川
かつては光傳寺の先から平潟湾に流れ込んでいました。当時、光傳寺の寺領は広く、その中を流れることから”寺中川”と言われたのではないかとも伝えられています。
遊行僧が広めた説教節”小栗判官と照天姫”の話が伝えられています。追っ手に追われ川に落ちた照天姫を助けようと供の”侍従”が川に飛び込み亡くなったところから名付けられたとも云われています。
広重の「内川の暮雪」は侍従川が国道16号線と交差する”内川橋”付近の風景ではないかと伝えられています。
ジープ山
現在は野島公園の一部になっていますが、かつてはこの辺りまで小高い山が連なっていました。関東学院の建っている所からは縄文時代の遺物も発見されています。江戸時代には眺めの良い場所として”四望亭”と呼ばれる所が近くにありました。ここは、海運業や漁業で生活していた室の木の人々の共同墓地があり、中世のやぐらもありました。戦時中、強制疎開させられ、山々は崩され、海は埋め立てられてしまいました。戦後、進駐軍の兵隊がジープを乗り回していたところからこう呼ばれるようになりました。
夕照橋
室の木と野島は長年渡船で行き来していました。追浜に海軍の飛行場ができると、野島に巨大な格納庫を造ろうとしてこの間を埋め立てる計画がありました。そのため軍は、平潟湾の出入口として、地続きだった洲崎と野島の間に運河を掘りました。また渡船が廃止され、”八紘橋”が野島・室の木間に架けられました。埋め立てられる前に終戦を迎えましたが、ある程度の大きさの船が通れた”澪”は分からなくなってしまいました。橋は”夕照橋”と名前も変わり、現在の橋は昭和60(1985)年に造られました。
染王寺
野島山。真言宗御室派。本尊は聖観世音菩薩。室町時代に野島山の山頂に創建されたが、強風により堂舎が破損したためこの地に移ったと伝えられています。関連は分かりませんが、”比丘尼了意 永徳2(1382)年6月18日”と刻まれた宝篋印塔があり、また江戸時代に造られた筆子塚が4基あります。野島にはかつて夕照山正覚院とか円明院という寺がありましたが、筆子塚には正覚院の住職の名も刻まれています。門前には女性だけの講中で建てられた石塔があり、漁師の妻たちのたくましさを思わせます。
野島稲荷神社
鎌倉時代、阿波守長島維忠の発願により、子の修理佐頼勝が創建したと伝えられています。野島の総鎮守で、御祭神はウカノミタマの神です。
野島浦の南端に”塩風呂御殿”と呼ばれていた紀州大納言頼宣の別邸があり、その御殿の鬼門の守りとなって、頼宣の厚い庇護を受けていたといわれています。
野島の漁師は代々将軍家に活鯛を献上していました。幕府の保護を受け”野島百軒”の言い伝えもありました。
神社の裏の崖には溝が掘られていて、崖から滴る水を集めて利用した跡だと思われます。
伊藤博文旧別荘
伊藤博文は、瀬戸の”東屋旅館”で、金子堅太郎、伊藤巳代治、井上毅らと明治憲法の草案を練っていました。草案が完成したのは、夏島の伊藤の別荘でしたが、金沢の地が気に入った伊藤博文は、明治30年に野島に別荘を設けました。敷地約9千坪、木造平屋建茅葺きの建物が5棟(建坪110坪)からなる明治時代の代表的別荘建築でした。
一時、日産が所有していましたが、野島公園が計画されたとき横浜市に譲渡されました。
伊藤博文は度々、金沢を訪れ、金沢文庫の再建にも尽力しています。
野島山展望台
太古の野島は、海に浮かぶ小島でした。その後、土地の隆起や土砂の堆積により寺前・洲崎と陸続きになりました。広重の「乙艫の帰帆」に描かれている美しい海岸線はこのようにしてできました。戦後の発掘調査で山頂付近に、2ヶ所の貝塚があることがわかりました。約8千年前の縄文時代初期のもので、動物の骨や野島式縄文土器などが見つかっています。平成3年に完成した海抜64mの山頂に建つ展望台からは、360度の眺望を楽しむことができます。遠くに、広重の「称名の晩鐘」や「小泉の夜雨」の風景も望めます。


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