あさいなのきりどおし(あさひなきりどおし)
現在、鎌倉霊園を経て鎌倉行きのバスが通っている県道は、昭和31年に開通したものです。
それ以前の旧道は、朝比奈バス停のすぐ先から左の谷あいをのぼり、鎌倉の十二所へ下りて行く山道で、「朝夷奈切通し」と言い、鎌倉七切通しの一つで、国の指定史跡になっています。
和田義盛の三男・朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたという伝説からこの名がついています。
和田一族滅亡後、この地域を直接支配した鎌倉幕府は、1240年この峠道の開削にかかりました。
工事は翌年竣工しましたが、執権北条泰時(やすとき)は自ら現場に出てきて監督し、督励のため自分の乗馬で土石を運ばせたりしたので、見る者はみな営々として働いたといいます。
この道が開かれると、北条氏にとっては江戸の内海や北からの物資はすべて六浦から鎌倉に入り、しかも房総の大族千葉氏と共に、三浦氏を牽制するのに非常に有利になりました。
また、昔の金沢は、その頃から幕末に至るまで生活必需品の塩の産地であり、十二所の光触寺(こうそくじ)にある塩なめ地蔵は、かつて金沢の塩売りがこの峠を越えて鎌倉へ商いに出るとき、お初穂の塩を供えたと言われています。
大山・江ノ島・鎌倉・金沢八景を結ぶ観光ルートとしても賑わいました。
峠の頂上を大切通(おおきりとお)しといい、付近にはかって甘酒や大福餅などを売る茶店があったようで、その跡も残っています。
今でもハイキングコースとして親しまれています。
ちなみに、昭和11年、旧峠村は磯子区編入の際、古くから言い慣らされた「朝比奈」を町名としました。
塩の道(横浜金澤散策コース)
金沢の平潟湾沿岸では、鎌倉時代から明治時代にかけて製塩が行われ、この地域の重要な産業となっていました。中世には金沢から鎌倉へ朝比奈の切通しを通って盛んに塩が運ばれ、この道筋が塩の道と呼ばれていました。六浦には今でも塩場と呼ばれる場所が残っています。
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鼻欠地蔵
金沢区に残っている、二つの磨崖仏(まがいぶつ)の一つです。
昔、朝比奈町は相模国鎌倉郡に属し、峠村と呼ばれていました。
ここは鎌倉と金沢を結ぶ大切な街道で、この地蔵の東わずか2メートルの所が、武蔵の国との国界(くにざかい)でした。
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